「熱中症小1児童死亡」で、教師を叩く人たちがいる。


児童を死なせた「責任者」は誰か。それは言うまでもなく、引率した教師であり、ひいては学校にあります。
そのことは間違いないことだと思う。
もちろん個人や組織が、自身で下した判断に対して責任を負うことは重要なことである。
今回でいえば、「猛暑の中、校外学習を実行する」という判断を下し、それが事件の原因になったことは間違いない。
だが、それで個人や学校が断罪されるだけでは何の意味もない。

果たして誰かが「責任」を取れば、それで話は済むのか?
今後二度とこういったことは起きないのか?
それは絶対に違うと思う。

なぜならば、今回の問題は、そして世間のありとあらゆる問題は、人間社会の中にある見えない「システム」によって引き起こされているからだ。

私たちは、すぐに「個人」「一つの組織」に全ての責任を押し付けようとしてしまう。
それで問題を解決した気になってしまう。

だが、そこで考えてみてほしいのは、果たしてその当人に、事件を回避するだけの権限や判断力があったのか。
言い換えるならば、「本当に担当の先生は、自分の判断のみで全てをコントロールできたのか」。

ここで自分の行動に置き換えてみてほしい。
今日は猛暑で警報が出ている。
仕事はある。でも、猛暑だから会社を休もう。

どうだろう。
今まで「熱いから」という理由で、会社を休んだサラリーマンや、夕飯の買い物に行くのを辞めた主婦がどれだけいるだろうか。
そして、そんな人を見たらあなたはどう思うだろうか。

つまり、今回の熱中症の事件でいえば、社会に存在する「暑いから外に出ないは甘え」という空気(システム)が、教師や学校の行動を、その無意識化で縛っていたのではないかということです。

これはあくまで一例です。

大事なのは、問題が起きた時に、特定の個人や組織の責任としてとらえるだけで終わらせず、
その背後もっと大きな「システム」、つまり構造的な問題があるのではと考えることだと思うのです。

今回の件でいえば、そもそも個人には「暑いから休む」という判断をする権限がなかったのではないかと考える。
ではどうすればよいかと言うと、「28度を超えたら課外活動は室外活動は控える」というルールを設定すればよい。
そうすれば個人の「判断」に生徒の命がゆだねられることはなくる。

そうすれば、教師は、ルールでは対応できない「判断力」が求められる問題に注力をすることができる。

とにかくシステム化によって構造的問題を取り除いていくことが肝要だと思います。

そして個人の日常レベルにおいて、
日常のあらゆる場面で、問題が起きた時に、特定の個人・組織に責任を押し付け断罪するのではなく、
その個人がそのような判断を下さざるを得なかった理由はなんなのかと検討していく習慣をつけることが大事だと思います。

 




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